ミスミソウ3巻と押切蓮介の描きたかった物の話
<以下解説を含む文章です。3巻未読の方はご注意ください>
- 作者: 押切蓮介
- 出版社/メーカー: ぶんか社
- 発売日: 2009/06/17
- メディア: コミック
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最終巻です。
春花という少女へのいじめと、彼女の凄絶な復讐劇は、春を迎える前に静かに幕を下ろしました。
結末については是非自分の目で確かめて欲しいので、ここで詳細に触れることは致しません。しかし、多くの人は読後に胸に穴が開いたような虚無感を覚えるのではないでしょうか。「どうしようもなかったのか」「どうすればよかったのか」と考えずにはいられない、それほどまでに「なんにもない」ラストシーンでした。
押切蓮介先生はこの余りにも陰惨で救いの無い物語に何を込めたのでしょうか。
それについて「いじめ」と「おばけ」という視点からちょっと考えてみます。
<「いじめ物」という娯楽>
ミスミソウの原点とも言える掌編に、「かげろうの日々」という作品があります*1。こちらもいじめをテーマにした作品で、「ミスミソウ」と同様に嫉妬が元になった女子の陰湿ないじめを描いており、また同様に救いの無いラストを迎えます。
「ミスミソウ」も「かげろうの日々」も、いじめっ子が陰湿ないじめをして、やがて復讐されるという筋は変わりません。
漫画におけるいじめを扱った作品というのは大まかに言って二つのルートがあって、
1.いじめが発生するが、何らかのきっかけでいじめが無くなる。仲良くなってハッピーエンド。
2.いじめが発生し、いじめられた方が徹底的な復讐を始める。
だと思うのですが、どちらにも共通しているのはいじめられっ子の「苛められ具合」がキモになるという所。1のルートでは仲直りのシーンが映えるし、2のルートでは容赦ない復讐の理由付けとして重要になってきます。
そしてそれ以上に重要なのが、「まずは読者の嗜虐心を満足させる」為に、主人公は苛められると言う事。結末が仲直りにしろ復讐完遂にしろ、いじめを扱う作品にはそういう側面が間違いなくあります。
特に2の復讐劇の場合は攻守のターン入れ替えで延々と陰惨な場面が続く事になります。「怖いもの見たさ」「酷いもの見たさ」とでも言いましょうか、「酷い」「見ていられない」「吐き気がする」などと言いながらも、心のどこかで惨劇シーンを求めています。
そういう暴力や蹂躙をエンターテインメントとして楽しむのは、まあ諸手を上げて賛成できる趣味ではありませんが、自分もその性向があるので偉そうな事は言えません。
そういった意味において、ミスミソウは非常に良く出来ていました。数々の残酷描写に田舎の閉塞感や家族の絆を絡ませ、より深く・鋭く・抉るように、いじめと復讐をみっちりと描いていました。その圧倒的な攻撃力に、読むのに「体力がいる」と感じた人も多かったのではないでしょうか。
それほどまでにミスミソウは「いじめ物」として特一級品の出来でした。
しかしそれだけでは単なる嗜虐趣味に過ぎません。そこで終わらなかった所に、この作品の真価があると思います。
それについては以下にて「おばけ」を軸にして考えてみます。
<押切漫画の「おばけ」の意味>
ミスミソウ3巻のあとがきで押切先生が『「普通」の人間を描く難しさを改めて痛感しました』と言われている通り、「ミスミソウ」にはおばけ・妖怪の類は出てきません。
初期作品や「でろでろ」「ゆうやみ特攻隊」「僕と姉とオバケたち」等、押切作品には「おばけ」を扱った作品が多くあります。押切作品のベースにあるのはやっぱり「おばけ」なんだと思います*2。
では押切作品における「おばけ」とは何でしょうか?
私は、人の傍らに在る、「怖いもの・害をなすもの・訳の分からないもの」を総称して「おばけ」と呼んでいるような気がします。押切先生はそれをぶん殴ったり、それと仲良くなったり、それに呪われたりする人達を描いて、人とおばけの関係から笑いや恐怖を読者に与えます。
そして、「何故おばけを描き続けるのか」という事について、短編集の中で押切先生はこのように書かれています。
僕はとても臆病で、おばけが嫌いで嫌いでしょうがない男でした。
おばけがもし本当にこの世にいたらどうしようと、恐ろしくて震えておりました。
しかしもしおばけがこの世にいなかったら……いないものにビクビクするのは馬鹿馬鹿しい。
そこで、僕はおばけがいるのかいないのか確かめることにしました。
おばけを挑発してやるのです。
挑発され、逆上したおばけが僕のもとへやってくるハズなのです。
(中略)
そう思って漫画を描き続け、早9年……
いまだに僕は、おばけを愚弄する漫画を描き続けております。
漫画を描けば描くほど、おばけは本当に本当に、いないんだなあと実感しております。
*「ドヒー!おばけが僕をペンペン殴る!」あとがきより抜粋
一般的に、人は未知のものを怖がります。また、人は人の変形したものを怖がります*3。
その点において、まさに「おばけ」は恐怖の対象として相応しい存在です。しかし押切先生は、上記のような理由で「おばけ」とかかわり続けます。それは「得体の知れないものを既知のものにしてしまおう」「怖いものを怖くなくしてやろう」という人間の意思です。勇気と言い換えても良いかもしれません。
その視点に立って見ると、それをギャグテイストにする「でろでろ」も、ホラーバトルとして描く「ゆうやみ特攻隊」も、根っこの部分は同じで「おばけとガチンコで向き合う事」を背骨にして作られていると考える事が出来ます。
<ミスミソウにおける「おばけ」>
さて、ちょっと前置きが長くなりましたが、本題の「ミスミソウ」の話に入ります。
実はミスミソウの中にも「おばけ」が出てきます。正確に言うなら、「おばけ的なもの」ですが。
文章にすると酷く陳腐に聞こえるハナシですが、それは「他人の心」です。
誰だって他人の全てを本当に理解する事は出来ません。そういう意味で、他人の心はおばけと一緒です。得体の知れないものです。
3巻まで読んだ人なら分かると思いますが、ミスミソウの本当に恐ろしい所はその延々と描かれる残酷描写ではなくて、「こうならなくても済んだ人達が、こんな事になってしまった」という取り返しのつかなさ、です。
たとえば、もっと早く春花が妙子の気持ちに気付いていたら?
たとえば、相場の母親がわが子の思いやりを素直に受け入れていたら?
たとえば、もっと早く流美が母親の愛情に気付いていたら?
たとえば、南先生に春花の辛さを想像できる余裕があったら?
たとえば、春花がいじめっ子の親達が子供達をどれだけ愛しているかを知っていたら?
そしてたとえば、全ての登場人物が誰かを思いやる気持ちをあと少しだけ持っていたら?
…おそらく、この惨劇は起こらなかったでしょう。
仮にいじめが起きても、ここまで酷い事態にはならなかったでしょう。
しかし、ミスミソウの登場人物たちは、得体の知れないもの=他人の心を、ただ悪いほうに想像し、恐怖し、排除しようとしました。先程の押切先生の言葉を借りるなら、「確かめようと」しませんでした。
そして、そこに取り返しのつかない、誰も救われない悲劇が生まれました。
そう、「おばけ」をテーマにした押切作品の中で、それときちんと向き合う事が出来なかった人々を描いた物語、それが「ミスミソウ」なのです。
<おばけをおばけじゃなくする為に出来る事>
だから、押切先生は漫画を通じて、おばけに「突っ込め」「かかわれ」と言います。
得体の知れないものなら、知れるようにすればいいじゃないか、と。
おばけも、他人の心も、分からないうちは怖くて当然。しかし怖がっているだけでは、その正体はわからず、もしかしたらそれが持っているかも知れない暖かさに気づく事もありません。勇気を持って突っ込んで行ってこそ、それの大切さを知る事が出来ます。
3巻のあとがきを読むと押切先生の意図が良く分かりますが、結局のところ本当に恐ろしいのは「おばけ」そのものではありません。「おばけ」を「おばけ」のままにしておく事こそが恐ろしく、悲劇の引き金になる事を、この物語は訴えているのです。
確かにこの物語は残酷です。息苦しい程の憎悪と狂気と血にまみれています。
もちろん前述の通り嗜虐的エンターテインメントである点も認めます。
しかし、物語をつぶさに読み、あとがきの意味を考えた時、以下の事に気付かされます。
誰もが自分と同じヒトであり、自分と違う人間である事。
そして誰もが何かに耐え、小さな花を咲かせる一つ一つの「ミスミソウ」である事。
それらに気付いた時、単純な残酷劇としての物語はその意味を反転し、勇気と慈しみの大切さを謳った悲劇へと変貌を遂げます。
だから、「怖がり」の人にこそ読んで欲しい。歯を食いしばりながらでも良いから。
心からそう思える、本当に素晴らしい作品でした。
今後も押切先生とおばけの戦いから目が離せなさそうです。