「惑星のさみだれ」のタイトルの意味


 先日「惑星ほしさみだれ」という漫画のタイトルについてちょっと面白い事に気付きまして。もちろん主人公の名前から取っていると考えるのが当然だし事実そうなのでしょうが、もしかしたらこんな意味も込められているんじゃないだろうか、というのが今日のお話。


 まず最初に引っ掛かったのは「真・業魔殿書庫」のLITさんの記事。こちらの記事は同じ「さみだれ」好きとして共感する事しきりなのですが、特に気になったのが以下の部分。

<以下記事より抜粋>


惑星のさみだれ」の熱さのひとつとして、「死に逝く者が、遺された者に意志を引き継ぐ」展開があります。

半月が夕日と三日月、氷雨に、師匠が昴と雪待に、そして連載の方でもそういう展開をすると思います。

形のない”志”だけでなく、目に見える形で半月の技を受け継いでいた夕日が、さらには掌握領域までも使えるようになるという。あの人の存在は消えない。

ノイの言葉にもあるように、子供は大人のマネをして大人になっていく、という”大人から子供、次の世代に繋がる”こともひとつの重要なテーマな気がします。

 自分は東雲さんや師匠の死に様のカッコ良さにばかり目が行って、「受け継ぐ/繋がる」というテーマ性まで気付いていませんでしたが、言われてみれば確かにそうだ。なるほどこれはアツい。



 さて、次に話変わって「さみだれ」という言葉自体の事。こちらは「五月雨」と書く梅雨時の雨の別称で、日常ではあまり使わないかも知れませんが、実は仕事上では「五月雨式に…」という形で結構使ったりします。自分が一番使うのは日程表を引く時で、たとえばこのように使います。

 こちらが五月雨式の日程表。会社員の方なら見慣れた物かと思います。もともとは「五月雨式=梅雨時の雨のようにだらだらと長く物事が続くこと」で、転じて始点がいくつもある物事を並列的にイメージするのに向いています。

 また、仕事以外では文学史の年表なんかでも見られる形で、始点を作家の生年、終点を没年として多くの作家を同じ年表の中に表すのに使います。こちらは学生の方も見たことがあるでしょう。誰と誰の時代が重なっていて、誰が誰にリアルタイムで影響を与えていたかが視覚的にわかる作りになっています。



 と、ここでLITさんの記事と合わせて考えた時、「惑星のさみだれ」というタイトルの裏の意味*1に初めて気が付いて、ますますこの漫画が好きになってしまった。それはつまり、「さみだれ」ってのは主人公の名前であるとともに、五月雨式に想いや命が続いていく事を表してるんじゃないだろうか、という事。

 こうして考えると、初めから作者は「惑星のさみだれ」というタイトルの中に「この惑星の上で五月雨のように続いていく命の物語」というテーマを込めていたのかも知れません。だとするならばもちろん、作者はこの五月雨が止まない事を祈って付けたのでしょう。漫画を読んで知る限り、水上先生というのはそういうアツい人です。ああ、何て良いタイトルなんだ。


 思えば前作「散人左道」も“法鉄―フブキ―よる”という師弟関係を軸に描かれた物語でした。また“フブキ―いろり”も黒布で繋がれた師弟と言えるでしょう。「力に翻弄される人々が織り成す、受け継ぐ物語」という枠組みにおいて、「惑星のさみだれ」と「散人左道」は驚くほど似た構造を持っています。



 作者の水上悟志先生は漫画の中でこう言っています。

 漫画を読み終えたら、また自分の世界を見つめて、自分の生活に戻りましょう。

 沢山勉強したり、バリバリ働いたり、それぞれの「生きること」をがんばってください。

 そしてがんばりすぎて疲れたら、また漫画でも読んで一息ついてください。
 
 がんばっている皆さんのために、いい漫画が描けるように、私も努力して行こうと思います。

 どうか漫画を読んでる一瞬が、あなたの癒しや、日々の活力へと繋がりますように。



 ―「散人左道」2巻あとがきより抜粋

 本の外を見なさい

 そこが一部であり全てだ

 世界キミ



 ―「惑星のさみだれ」4巻奥付前の秋谷師匠の言葉


 水上先生は漫画というフィクションの物を描きつつも、その世界に没入し続ける事を良しとしません。「一息ついたら、現実をがんばろう」と言います。

 それは、現実世界での生きる事・命を続けていく事・受け継いでいく事の素晴らしさを訴えたいから。

 現実が怖いからと引き篭もってばかりでは、いつかこの惑星に降る命の五月雨が止んでしまう事を知っているから。



 青臭いかも知れません。説教臭いと見えるかも知れません。でもこういう事をストレートに伝えてくれる熱い作風は、僕は大好きです。
 
 

  • 参考記事

 →真・業魔殿書庫さん「惑星のさみだれ」5巻レビュー

 

*1:と思われるもの