エイリアン2完全版

<今日は大好きな映画なので長文です。読む人は覚悟完了の上読んでね>


 


 これは名作だ。

 
 昨日また観ちゃった。やっぱ完全版は良いなあ。もう何度観た事か。


 もしも貴方が万が一、まかり間違って、それこそ針の穴を通すようなタイミングの悪さで、今までの人生でこの映画の1・2を観ていないとしたら速攻で観る事をオススメする。血とか苦手な人はダメだろうけど、そうでない人にとっては類稀なる名作に出会える事を約束する。


 以前エイリアンシリーズを良く知らない人と話した時、「えー、あの気持ち悪い化物が出てきて血しぶきドバーでウギャーとか言うスプラッター映画でしょ?あんなのどこが面白いの?映画の存在価値がわからない」と言われた事がある。確かにジャンルで言えば1作目は密室型SFホラーとして、2作目はSFホラーアクションとして括られる事になるだろう。しかしその見方だけではエイリアンの本当の魅力に気付く事なく終わってしまい、悪くすれば前記のような印象しかこの映画から受け取る事は出来ない。


 例えば、エイリアン1では現実の男性社会(会社)の中で働く女性の受難と、それでも戦う女性の芯の強さを匂わせていたように、このシリーズ*1には必ずメッセージ性がある。僕が惹かれるのはそこだ。例えば、同じ恐怖を扱った映画でも「13日の金曜日」「エルム街の悪夢」「呪怨」などのシリーズはそんなに好きではないし、1回見れば十分だ。それは、これらの映画が「怖がらせる事」「驚かせる事」に重心を置いて作られていて、メッセージ性なんてものは含まれていないからだ(もちろん「それがいい」という人もいるだろう)。
 ではエイリアン2のメッセージは何か。それは2人の「母親」を通して描く「生物のエゴ」だと思う。



<以下ストーリーの詳細を含んだ解説になります。知りたくない人は観てから読んでください>


 冒頭、57年間の冷凍睡眠から覚めたリプリーはある物を見て愕然とする。それは自分よりも年老いて死んでいった娘の写真。自分が知っている11歳の娘とはあまりに違う姿。ここでリプリーは徹底的なまでに母親である事を喪失する。(前作で)エイリアンに遭遇しなければ無事に帰還し、娘に会うことも出来ただろう。彼女はエイリアンに母親である事を奪われたのだ。

 毎夜のエイリアンの悪夢に悩まされた彼女は、海兵隊と共にあのエイリアンが巣くう惑星に行く事を決意する。それは、殖民星の家族を救うという英雄的側面よりむしろ、娘の仇とも言えるエイリアンを根絶やしにして自分の悪夢を消し去る目的――つまり私怨の方が主のように思える。それは、リプリーがバークに殖民星へ同行する事を承諾する時「エイリアンを標本として持ち帰るんじゃないのね。根絶やしにするために行くのね」と確認するシーンで明らかだ。通常の思考であればあんな怪物と戦うよりもまず、住民を救ってから二度とあの惑星に近づかないようにするか、あるいは根絶したいのであれば遠距離ミサイルでも何でも撃ち込めば良い。いずれにせよ「住民の安全」が第一のはずだ。
 戦ってエイリアンを根絶やしにする、あるいはエイリアンに殺される、いずれにせよ夜毎の悪夢からは逃れる事が出来る。会社に請われたという体裁を取っているものの、明らかにこれは「私」に根ざした動機であり、リプリーのエゴであろう。

 
 そしてリプリーは殖民星でたった一人の生き残りの少女ニュートに出会い、心を通わせ始める。彼女の年齢が(生き別れた時の)リプリーの娘の年齢とほぼ同じなのはもちろん偶然ではない。ここでリプリーは母親である事を再獲得する事になる(ちなみにラストバトル後にニュートがリプリーに「ママ!」と言って抱きつくシーンは名場面)。ここで興味深いのは、ニュートがエイリアンに捕まったときは決死で助けに行くのに、アポーン達海兵隊がエイリアンに捕まった時には「繭にされたのよ。諦めましょう」と言うリプリーの態度の違い。ここでも判るように、リプリーにとって「娘」の方が海兵隊に比べて遥かに大事なのだ*2


 そしてもう一人の母親であるエイリアンクイーンとの対決。「彼女」もまた母親であり、自らの一族が繁栄するように本能に従って他の生物を糧としているに過ぎない。ここで注目すべきはニュートを助け出したリプリーがエイリアンの群れに囲まれ、クイーンに対して「エイリアン達を退かせなさい。さもないと貴女の可愛い子供達(卵)を焼くわよ」と行動と目で伝えるシーン(ここの目の演技力がすごい)。ここで意図を理解したクイーンがエイリアン達を退かせたにもかかわらず、リプリーは引き際に卵を焼き払い雄叫びをあげながら銃を乱射する。もちろん、後数分で核融合炉が爆発して何もかもが消えてしまうこの状況で、こんな事をする必要は全く無い。ここでも、彼女を衝き動かしているのは植民地の人を殺された義憤などではなくあくまでも私怨だと考えるのが妥当だろう。しかも正確に言えば、実の娘を失う原因となったエイリアン個体(1のエイリアン)とは別の個体達に対して報復を行っているわけで、これは人間の世界に置き換えれば「殺人犯(しかも実行犯ではない)が憎い余りその母親や親類を皆殺しにする」というとんでもないエゴイズムの暴走である。

 そうしてラストバトルでは、母親である事を再獲得した母親(リプリー)と母親である事を喪失した母親(クイーン)との一騎打ちと相成る。ここで面白いのはニュートを捕まえようとしたエイリアンクイーンに対してリプリーが言う言葉。字幕・日本語吹替版ではわからないが、英語では「Get away from her , BITCH!」と言う。これはエイリアンクイーンが人間にとっては恐ろしい怪物でありながらも、ある一種族の母親(雌)である事を示唆する重要なセリフであり、字幕に出ないのが残念でならない。
 そして戦いはリプリーが勝利し、映画は幕となる。ラストシーンはリプリー(母親)とニュート(娘)の冷凍睡眠カプセルが並んだカットで、これはオープニングのリプリーだけのカプセルが写っていたシーンと対になっていて、全く良く出来ている。


 では総論。

 詰まる所、自分の種族のために他の生物に寄生して殺しまくるエイリアンも、私怨でもって他種族をぶっ殺しまくるリプリーも、言ってしまえばどちらもわがまま・エゴの塊だ。しかし「それで良い」と僕は思うし、この映画が言いたいのもそうなのではないかと思う。
 確かに、日常生活ではエゴというのは批判対象になりやすいが、本当にギリギリの部分――生命の危険や種の危険といった本能に基づく部分や大事な者の為にはエゴイスティックになってしまうのが人間であり、生き物ではないか。この映画ではそこをこそ語っているように思える。 
 例えばリプリーが銃を取ったのはニュートと出会った後である事、またニュートがエイリアンに怯えて通風孔を這いずり回っている間、ボロボロの人形を抱きかかえていた事にもきちんと意味がある。親は子(子孫)を守るためにはいくらでもエゴイスティックになれる、と同時に子の存在こそが親を強くしているのだ*3



 この映画では、そんな一見当たり前の事を語っているのではないかと僕は思う。しかしこうして当たり前の事を言ってくれる映画と言うのは、実の所そうは出会えない。



 その上で言おう。

 これは名作だ。


  • 余談

 単なる戦争アクションとしても一級品だけど、こういう視点で観ると中々深くて良いよ、エイリアン2は。
 

  • 余談2

 テーマを「戦争=所詮エゴとエゴのぶつかり」と考えるのもアリだけど(キャッチコピーも「今度は戦争だ!」だしな)、何でもかんでも戦争論に繋げるのは個人的に嫌いなんで、こっちの方向で。

  • 余談3

 ここではエゴ(エゴイズム)は単に利己的、利己的行動という意味で用いています。本来の意味がどうとかesがどうとか言い出すとキリ無いんで止めて下さいね。

*1:あくまでもエイリアン1・2の話。3・4は「…」な出来だから

*2:もちろんどうなっても良い、と言う意味ではなくて、比較したときに、という話

*3:ニュートの場合は「ケイシーは人形よ。人形は夢は見ないわ」と言いながらもエイリアンに捕まるまで人形を片時も離さなかった。人形(擬似的な娘)の存在がエイリアンから逃げ回る辛くて長い恐怖の世界で彼女にとっていかに救いだったか!