罪と罰 6巻


「君の愛情は暴力だ」

罪と罰 6 (アクションコミックス)

罪と罰 6 (アクションコミックス)


 誰しもが名前を聞いた事があるドストエフスキーの文学作品「罪と罰」を現代版に翻案した漫画も、早くも6巻目。

 作者も筆が乗っている様子で、比較的早い刊行ペースが嬉しい。


 今巻では切れ者の検事「五位蔵人」に揺さぶられ、前巻で愛憎劇の末に夫を亡くした娼婦「エチカ」に縋る主人公の姿がとても印象的でした。自らを普通の人間とは違う「力を行使する資格のある特別な人間」とした上で、殺人を自分の中で正当化していたはずの・・・主人公「弥勒」が見せる、余りにも「普通の人間」らしい恐れと動揺、そして甘え。


 ああ、そうだ。ここで描かれているのは、まさに身勝手で愚かで愛おしい、人間そのものだ。


 まるで溢れる血を素手で触った時の様な、嫌悪と安心を併せ持った暖かさ・生々しさがこの作品には流れています。

 今まで落合尚之先生の作品は『黒い羊は迷わない』が自分内でベストでしたが、原作付きという条件アリで考えると、ここに至っては最早この『罪と罰』が頭一つ抜けています。

 本当に面白い作品に育ちました。こうやってぐいぐい面白くなっていく作品をリアルタイムで楽しめるってのは本当に嬉しい。これだから漫画読みはやめられません。


 さて、ネタバレ防止の為に内容については触れずに、今巻で気づいた事を一つ。

 この作品、殺人というどこからどう見ても「犯罪」を扱っていながら、逃げる犯人と刑事との駆け引きを扱った、所謂「クライム・サスペンス」や「法廷劇」とは趣がちょっと違うんですよね。


 「主人公の行為は犯罪か否か」と問われれば、もう是非を問うまでも無く100%犯罪なわけです。真っ黒です。

 しかしこの作品で焦点にしているのはそこじゃありません。それは、タイトルにも現れているように、「罪」そのものです。法によって定められるものが「犯罪」、人によって定められるものが「罪」。仮に法に触れなくても(=犯罪ではなくても)、人が罪だと言えばそれは「罪」になりえます。そしてもちろん、その逆も。


 1巻の頃からそうですし、6巻を読むと一層よく分かりますが、主人公の弥勒ときたらもう穴だらけなんですよ。自己顕示欲のせいで色んな事ペラペラしゃべくっちゃうし。それはもう、並の犯罪映画だったら犯人の風上にもおけないくらいグダグダ。だから、五位検事みたいな切れ者が本気出せば、多分ソッコー逮捕ですよ。


 でもこの作品では、簡単にそうする事はありません。なぜなら、この作品のテーマは「法の定める犯罪」ではなく「人の定める罪」だから。

 もっと言うなら、弥勒の、あるいはヒカルの、里沙の、飴屋の、その他あらゆる登場人物たちの「罪」の有無と軽重を問うのは、他でもない読者に委ねられているから。

 つまり、この作品は頁の中で繰り広げられる人間ドラマを楽しむだけの作品ではなくて、読者が一歩踏み込んで「罪と罰を真剣に考える」事で初めて完成される作品なんですよね。


 だから、並の「物語」のように、舞台の上の役者達を呑気に眺めているような姿勢でこの作品を読むと、手痛いしっぺ返しを食らう事になります。掴みかからんばかりに「物語」の側から「罪」を問うてくる、非常に読み手に対して能動的な作品です。


 ああ、なんと心地よい責め哉重み哉。

 たまにゃあこういう、腹にドスンと決まる食い物も悪くない。


 続刊も楽しみです。


  • 過去記事

 →罪と罰 1・2巻 感想

 →罪と罰 5巻 感想