ライン


「時間です。さようなら」

ライン (角川コミックス・エース)

ライン (角川コミックス・エース)



 主人公のチーコは今時の女子高生。ある朝、駅のベンチにに落ちていた携帯電話を拾った時から、彼女の長い一日が始まった。

 放課後にその携帯に掛かって来たのは「3時50分に駅ビルで人が死ぬ」という死亡予告。イタズラだろうと思っていたチーコだったが、予告通りに人が死ぬのを見てチーコは青くなる。そんな彼女に携帯の声が告げるのは「次はシブヤの山手線ホーム。15分後。急いで止めに行ってよ」と言う言葉。

 傍らに居た、あまり接点の無かった優等生バンドーと共に渋谷へ向かうチーコ。電車の中で必死で頭の中を整理しようとするチーコと、あくまで冷静なバンドー。やがて、突如鳴り響いた衝撃音と列車の急ブレーキ、そして「人身事故の為、緊急停車いたしました」という車内アナウンスによって、二人は一連の出来事が冗談や偶然でない事を思い知らされる。

 その後も繰り返される予告と、彼女達の目の前で死んでいく人々を見てわかったのは、「自殺志願者を止める事が出来るか」というゲームに自分達が巻き込まれてしまったという事。時間通りに彼女達が現場に着ければ「セーフ」。着かなければ「アウト」。

 「アウト」になった人達は「時間です。さようなら」というメールを残して次々と死んでいく。

 純粋に憤るチーコと、どこか面白がっているバンドー。死のボーダーラインを超えようとする人々を止めるため、ちぐはぐな二人は夜の街を全力で駆け出した!


 あらすじはそんな具合。サスペンス物ながら、街中を若者達が走り回る描写とチーコの真っ直ぐさが爽快。「自殺」という重いテーマを単純な惨劇・悲劇で終わらせず、前向きに消化しているのが実に清清しい。現状の脳内小手川作品ランキングでぶっちぎりの1位。単巻でキッチリ魅せてくれる良作です。


<ここから先はネタバレ含みますのでご注意>

 
 さて、このお話の軸になるのがチーコとバンドーという二人の主人公なのですが、この二人の性格付けが非常に巧い。


 無軌道に生きているイマドキの女子高生に見えて、実は結構アツいチーコ。陸橋から線路に飛び降りた男の自殺を後一歩で止められなかった時、彼女達よりも前にいた野次馬達にチーコは詰め寄ります。
 (単ページだとわかりにくいですが、上段のコマ内は全て野次馬のセリフ)

 

 これがチーコ。彼女は「見知らぬ誰かが死のうと自分は生きていける」「死にたい奴は勝手に死ねばいい」と考えながらも、絶対に走るのをやめません。そこには理屈も打算も無く、おそらくは誰かを助けて感謝されたいという英雄願望もありません。彼女の真意は、ラスト近くの彼女のモノローグに表れています。「死ぬほどノドが渇いて、死ぬほどハラが立って、肺が焼けそうに痛い」。そう、結局彼女は自分自身が自殺ゲームなんて馬鹿な事に納得がいかないだけ。でも、それの何がいけないのか。頭でひねり出した自殺を止めるのに必要な理屈なんて、きっとチーコの純粋さに比べればずっとずっと取るに足りないものだ。


 次に優等生のバンドー。彼女は成績も運動も得意な優等生なのに、チーコとは対照的にちょっと心が壊れています。2度の自殺を目の当たりにして、「面白い事になってきた」という様子の微笑みを浮かべる程に。何でも人並み以上に出来る彼女は、毎日が退屈だったと言います。

 

 これがバンドー。この時点では完全にこの事件をゲーム扱いして興味本位で付き合っています。チーコは自殺を選んだ人たちを「ラインを超える人たち」と呼び、バンドーも「あっち側」にいるのではないかと直感しますが、それはあながち間違いでもありません。何でも出来る故の退屈、予想の域を出ない世界への絶望と諦観が彼女の中には常にあったのですから。

 しかし事件に巻き込まれてチーコと一緒に走り続ける内に、バンドーの表情が段々緩んできます。それは懸命になる事の楽しさ、誰かと一緒に「精一杯」を共有する楽しさ。今までのように他人と関わらないままでは味わえなかった気分。「ここには何も無い」と思い込んでいたバンドーは、チーコを通じて「本当に楽しい事」がこんなに近くにあった事に気付き、年相応の少女の笑顔を見せます。死体を見て浮かべた微笑みの、何万倍も魅力的な笑顔を。


 *ここはラスト近くの名シーンなので引用しません。是非自分の目でご覧下さい。


 走る二人の女子高生を通じて小手川さんが描きたかったのは、きっと「理屈じゃない」って事。自殺を止めるのも、誰かと経験を共有する事の楽しさも、理屈なんかじゃない。敢えて理屈をつけるならば、さくらももこ先生じゃないけれど、たぶん人間が「そういうふうにできている」からだ。

 以前もちょこっと書きましたが、現代社会は理屈じゃないことに理屈を付けようとし過ぎてる所為でおかしくなっている節があるように感じます。たまに掲示板やはてなで「どうして人を殺してはいけないのか?を納得いくように説明してください」なんて質問が立つことがあるけれど、この質問自体も質問に対して答えをひねり出してる連中も、見てると実に苛々します。「いかんもんはいかんのじゃボケー!!」と引っぱたきたくなります。人間自体が感情を持っている不安定な生き物なのですから、「理屈じゃない」「理屈にしてはいけない」事がきっと世の中には山ほどある。以前も書いたことなので詳しくは省きますが、倫理や規範意識と言った自分の内から出てくる「感情の縛り」に比べれば、法律というたかが他人がこしらえた「言葉の縛り」程度に大した強制力はありません。

 
 さてここで本編の話に戻しますと、この漫画で「感情」を表現しているのがチーコで、「理屈」を表現しているのがバンドーなんだと思います。「理屈」に埋め尽くされた世の中は退屈で無機質。だけど「理屈じゃないもの」=「感情」を手に入れることによって、人は心から笑うことが出来ます。

 だからチーコは言います。「バカの方が楽しいって教えてあげたいんだよ」と。

 
 ものすごく当たり前の話ではあるのだけれど、それを面白い物語に乗せてきちんと伝えてくれる漫画ってのは意外と少ない。

 
 刊行は2003年とちょっと古い漫画ですが、古書新本ともに店頭で良く見かけますので探すのは難しくないと思います。見つけたら即買いをオススメする良作です。



  • 余談という名の本編

 さて、なんで今頃「ライン」なのかというと、こちらのニュースを見て。

●<秋葉原通り魔>携帯掲示板に予告 警視庁に情報、警戒中

 例の秋葉原通り魔事件。

 携帯サイトに殺人予告を書き込んでいたという犯人の異常性が、携帯を通じて自殺予告をする「ライン」を思い出させた。「時間です」「さようなら」という単語が共通している所も吐き気がする。

 「世界を殺す」という意味において無差別殺人も自殺も同じ*1なのではないか、と思う。もしかしたら携帯サイトに書き込まれた殺人予告は、「ライン」の自殺予告と同じく「止めてほしい」という意志の表れだったのかも、とも思う。


 しかし現実に死傷者が出ている今、それらの理屈は感情の二の次だ。「吐き気がする」。それが偽らざる感情。



 無差別に人を殺していいわけが無い。


 ねえんだよバカヤロウ。



 自分は漫画にかこつけてしか物の言えないオタクなれど、被害者の方々のご冥福を心よりお祈りいたします。


  

*1:認識できる世界を殺すのが殺人・破壊。世界を認識する事を殺すのが自殺