だって愛してる 2巻


「私はここにいるよ」

だって愛してる 2 (まんがタイムコミックス)

だって愛してる 2 (まんがタイムコミックス)

 
 むんこ先生の作品で一番好きな「だって愛してる」待望の第2巻。相変わらず身悶えするほどにラブラブかつ暖かい話に頬の筋肉と涙腺緩みっぱなしで困りものです。

 
 以下ネタバレ含む感想。読んでない人は回れ右。


・この漫画での最強のツンデレキャラは街子…ではなくて街子母。これはもう異論のない所だと思われる。そして息がピッタリの街子父。こういう見てて「ほうっ」とする関係性を描くのホント巧いよなあ、むんこ先生は。


・曽根っちにもようやく春が。おめでとー。2巻は悲しい・重い話が少ないせいか全体的にトーンが明るいですね。


・高校時代の話を絡めた二人の話もこちらが恥ずかしくなる位のラブっぷり。92Pの「街子さん悶えゴロゴロ」は反則。あのな、読んでるこっちなんてゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロぎ…銀ちゃんかっこいい……だっちゅーの!!(意味不明)
 ところで街子さんって28歳だったんですね。あんまりしっかりしてるんで30過ぎくらいかと(失礼)。


・ラストの6コマがまた良い。そういう事でスイッチが入っちゃう雄二の気持ちわかるなあ*1。多分街子さんも雄二が何故泣いたかは充分にわかっていて、それでも敢えてああやって言ってる。この距離感・空気がもう絶妙。


・特別編「雄二の居た場所」が非常に良い出来。幼少時代の雄二が荒れた家庭環境の中で救いを求めたのは物語だったというストーリー。小説家「寺田雄二」の原点とも言えるお話は、雄二の父親がお絵かき帳に書かれた「幸せな家庭の作り話」を読んで一人泣いている場面、及び「それは手の届かないもの?」という締めの部分が泣き所な訳ですが、2巻を最後まで読むと興味深い事に気付く。
 2巻の後半では高校時代の雄二と街子が描かれていて、そこに登場する雄二の父親は未だアルコール依存症でろくでなしの父親として描かれている。また、1巻をよく読んでいた人なら憶えていると思うが、雄二は自分の父親を完全に許しているわけではない。つまり、雄二が初めて作った物語で一時は泣かされはしたものの、雄二父は心を入れ替える事が出来ず、その先も雄二を苛み続けたという事だ。あるいは離婚のタイミングも重なって再び荒れてしまったのかも知れない。
 おそらく、自分が作った物語を読んで泣いている父親を襖の陰から盗み見た時、雄二は「物語には人を動かす力がある」事を肌で感じたのだろう。頻繁に暴力を振るい、力では絶対にかなわない父親が、たった一冊のお絵かき帳の前で泣き崩れているのだから、尚更にそう思った事だろう。
 しかし成長していく雄二が見るものは、いつまで経ってもアルコール依存症から脱け出せない父親の姿。もちろん雄二父が余程のろくでなしだからというのもあるのだろうが、雄二はそこに「物語の限界」も感じたはずだ。つまり「多少泣かせる・感動させる事が出来たとしても、物語の力なんて所詮一過性のものでしかない」と。
 しかし、雄二は小説家になる事を諦めない。高校を卒業してから10年、(おそらく)小説一筋でやってきている。何故か。それは、物語の力を信じているからだと思う。「自分が幼い頃に書いた物語は微々たる力しか無かった。でももっと良く出来た話だったら?あるいは微々たる力でもそれがいくつもいくつも重なったら?」―意識的にそう思っているかどうかはわからないが、おそらく雄二の根底にあるのはそういった信念なのだろうと思う。あるいは、雄二は幼い頃の自分を救うだけの「力」のある物語を求め続けているだけなのかも知れない。
 そして、そうやって「物語の力」を信じて地道に小説を書き続ける雄二の姿は、どの作品も「人と人の絆の暖かさ」にガッチリ軸足を置いて漫画を描き続ける作者自身のスタンスとシンクロする。
 街子さんの懐妊とむんこ先生の懐妊のタイミングが近かった事から、「だって愛してる」の二人は作者の分身と見る人もいるでしょうけど、むしろそういう意味では雄二=むんこ先生で、街子=ダンナさんなのかも知れません。

 だから、読者の出来る事はただ一つ。むんこセンセの漫画で泣かされたら、それを一過性のものにしないで自分の中の片隅に置いておく事。つまり、以前の日記でも書いたように、自分の周りを花丸町にしてしまう事。

 花丸町を絵空事だけのものにしておくなんて、もったいないじゃないですか。

 →過去記事「花丸町へ行こう」

  

*1:子供いないけどね