鏡の法則 つづき


○結局「鏡の法則」ってなんでこんなに話題になってんの?


 あんまりムカつくんで、だらだらと昨日の日記の続きを。

 はてな内で巡回してみると色んな意見があって実に面白い。肯定否定でだいたい半々くらいかな。肯定側で「感動した」「泣いた」ってのはもちろん、否定側は「ただの本を売るための戦略」だとか「カルト(マインドコントロール)集団が絡んでる」とか。


 別にね、本を売るための戦略だろうがカルト組織の戦略だろうが構いません。この程度のお話に引っかかるようなアホウはどんどん引っかかったらいいんです。…とは言いつつもそういう人間がマジョリティになったら住みにくい世の中になるな…。


 だいたいコーチングなんて大ッ嫌いなんですよ。マニュアル通りに人を動かそうなんて思い上がりも甚だしい。真心の無い人間についていくほど俺達はバカじゃねえよ。っつっても「楽をしたがる人間」ってのはこういうのにホイホイ従っちゃうんだろうなあ。
 考えるってのはスゲー疲れる。逆に言えば考えないってのはスゲー楽だ。この際だから正直な所を言ってしまうが、「IQサプリ」とか「脳を鍛える大人のDS」とか「大人の塗り絵」とか「ナンクロ」とか「鉛筆で奥の細道」とか「島田検定」とか「100マス計算」とかいった、近頃の脳力ブームってのも実はこの辺に端を発してると思う。
 無思考で、かつそれを無自覚な国民ほど扱い易いものは無い。政府もマスコミも企業も資本主義の絶対神である「金」を労力をかけずに我々から吸い上げる為に、消費者を出来る限り無知で無思考な状態にさせようとする*1。それは方法論として非常に正しいし、それを今更否定するつもりも無い。ただ、我々が今そういう状況下に置かれているという事に対して我々はどこかで「引っかかっている」あるいは「無思考である事に漠然とした危機感を持っている」、つまり「流石にもうちょっと頭を使っとかねえとヤバいんじゃねえか」と思ってる。それで脳を鍛える商品や番組が受ける、と言う仕組み。ただ、それさえも我々に与えられた「撒き餌」に過ぎない事を自覚しているか否かで立ち位置は全く変わってくる。脳力関係の本もゲームも番組も「新しい玩具が増えたなあ」くらいに思っておかないと、本当に考えなければいけないことを見失なってしまいますから。こんなんで本気で脳が鍛えられるなんて思っちゃいけません。実戦におけるトライ&エラーほど優れたトレーニングは無いんですから。
 
 すみません。話がそれました。

 えーと、「楽をしたがる人間」ってのはつまり自分で考えるのが「面倒くさい」「疲れる」から、簡単に赤の他人や成功の法則みたいな本に頼ってしまうわけですが、中でも最悪な部類になるとここにもう一つ要素を加えます。それは責任の転嫁です。つまり状況が悪くなったら、そんな的外れな指示を出した「助言者」や「法則」や「マニュアル」にその責を負わせれば良い、って事です。とんでもない卑怯者ですね。
 もちろん、人やマニュアル本に頼ってはいけないとは言いません。例えば、人から助言を受けて何か悪い結果になった時に「こんなに大事な事を人に頼った私が悪かったのだ」「誰にだって予測のつかない事はある。私の為を思って助言してくれたのだから、お礼だけは言っておこう」と思える人だったら、ごく普通の感覚だと思います。



 で、結局「鏡の法則」ってのも信賞必罰というか等価交換の仕組みに見えてくる。なんか映画の「ペイ・フォワード」みたいな感じ。

 すんごく端折って「鏡の法則」を考えてみると、

 「誰かを責めるのは悪い事。だから自分に悪い事が返ってくる(鏡のように)。だから許し・受け入れることこそが大事。そうすれば自分にも良い事が返ってくる。」


 って事でしょ?もちろん「周りの人間を許し・受け入れる事で自分(自分の願い)も受け入れられるようになる」ってのはある程度真実ではあるし、言いかえるなら「許されたかったら許しなさい」「好かれたかったら好きになりなさい」って事なんだろうけど、ちょっと考えてみよう。
 
 それは絶対か?

 周りの人間を許し・受け入れる事は自分が受け入れられる事や問題が解決する事とイコールで結ばれている事なのか?確かに、その確率は高くなるかも知れないが、イコール(鏡)ではない事はちょっと考えれば誰だってわかる事。
 だって「実を結ばない努力なんて山ほどある」って事は、ある程度の年齢に達した人ならば誰だって知ってる事だもの。
 
 そうなると怖いのは「鏡の法則」みたいな戯言(あ、言っちゃった)を真面目に信じてる人。例えばうまくいかなかった時に、「あたしはこれだけやったんだからこうなって当然じゃないの!こうしてくれたっていいじゃないの!」って逆ギレするんじゃなかろうか。こんなの「ぼぼぼ僕がこんなに愛してるのにッ…!」って言ってるストーカーと変わりませんよ。利他的な利他行動と利己的な利他行動ってのはこの辺で差が出るんだろうなあ。本当に他人や家族のことを想ってやった事なら、自分が報われなくたって相手の笑顔見てるだけで満足な筈ですから*2

 結局ね、「鏡の法則」なんてものを信じる/信じたい人間ってのは自分も許されたくて許されたくてたまらないわけですよ。逆に言えば自分が罪人である事にうすうす気付いてる。だから「他人を許せばきっと自分も許されますよ」なんて妄言にむしゃぶりつくんです。みっともねえ。


 許されなくってもいいじゃねえか。誰かを責めたっていいじゃねえか。誰だって自分の思い通りにならない世の中で、出来るだけ自分の思い通りになるようにって足掻いて生きてんだ。衝突もありゃあ失敗もあるし歪みだって出るよ。
 誰かに許されない事、責められる事への覚悟が足りないからって、「先に自分が誰かを許した振りをして自分も許されよう」なんて、そんなムシのいい話があるか!


 許さない事・責める事・許されない事・責められる事。その覚悟も無いような奴が社会の中で何が出来る?

 自分で考える事、つまり自分の考えと結果に責任を負う事を放棄して本やセミナーに頼るのが関の山じゃないのか?

 なあ、教えてくれよ。

 憧れと盲信を履き違え、信頼と甘えを履き違え、一体お前らはどこに行こうってんだ?




○「鏡の法則」の構造について

 ある程度他の日記とか巡回した人はわかってると思いますが、この文章は程度の低い騙し絵みたいなものです。

 つまり「泣けるお話だよ」と振っておいて、実際に感動的っぽいストーリーで泣かせ、鏡の法則への信頼性を高める(信者にする)のを目的としています。

 A子と父親との電話のシーンは長年の親子の和解を描いており、また息子が元気になって学校へ行くシーンなども身に覚えのある人は「泣き所」として存在しています。しかし、それと「鏡の法則」とはまったく別物。
 非常にありがちな家庭事情を描き、多くの共感と涙を誘うように作られたこのお話は、「凄く泣いた=鏡の法則マンセー」と思わせるための仕掛けに過ぎないんです(でもその「泣かせ」と「法則」が文章の中で綺麗に馴染んでないんで、違和感や宗教臭さを感じる人が多いみたい。やるならもっと巧い文章作れっての)。

 で、昨日にも書いたように僕のスタンスってのは「この話で泣いた=バカじゃないの?」ってわけじゃないんですよ。ただ、「泣かせ」の筋道と「法則」の筋道を全く別物として捉えないと危険だよ・落とし穴あるよ、って言ってるだけです。バラしちゃったけど「なぜ泣いたか良く考えてください」ってのはそういう事です。


 「ぼろぼろ泣いた=人を信じる・許す事を謳ったいい話=私も暖かい人間になってこの素晴らしい法則に倣って生きてみよう=ついでに本も買ってみよう=ついでにセミナーにも行っちゃおう」…とまあここまでお目出度い人はそうはいないでしょうが*3、彼らにとってみれば母集団が多ければ多いほどそういう阿呆が引っかかる確率が増えるわけで、ブログとか口コミで増えるように仕掛けをしてるわけです。もちろん、商法上は全然アリのやり方なんで、選択するのはあなた次第。

 
 さあ、考えましょう。今まで書いた僕の意見すらあなたにとっては材料の一つにしか過ぎません(材料にすらならねーよヴォケ、という人もいるでしょう)。




 鏡の法則はアリか/ナシか?

 人に勧めるべきか/警告すべきか?



○終わりに

 あー疲れた。本当はね、人の悪口なんて言いたくないんですよ僕は(木の枝で出来た鼻を伸ばしながら)。
 やだやだ、なんでも疑ってかかって。寂しい人間だねえ。我ながらろくな死に方をしないと思うよ(鼻をギュンギュン伸ばしながら)。

 
 どっかのブログで会社の講習で取り上げられたって言ってたなあ…。とりあえずウチの会社の上層部がこんな駄文に引っかからないよう、注意して見る事にします。いざとなりゃこんなもん論破するのワケないし。


 つーかね、心理学齧った人間なら鼻で笑ってると思うけど、こんなん全然心理学じゃないよ。むしろ心理学への冒涜。心理学ってのは仮説→データ収集→統計分析→仮説の立証・結論(仮説を立証する材料が集まらなかった時はそれを基にした推論・仮説へ移行)のプロセスを踏む、むしろ数学に近い学問なんだから。人の心なんて読めないし、ましてや「こうすれば絶対にこうしてくれるよ」なんて妄言もいい所。それでも心理学だと言い張るなら膨大な母集団から採ったであろうデータ(少なくともデータ収集方法と内容・母集団の数・偏向分析の結果)を公開するのが学者としての最低ライン。それをしてないって事は「バックデータが無い=仮説をそのまま結論に持ってきている」と勘繰られても文句を言えない*4

 ま、つまり「騙すんならもうちょっと上手にやんな」ってこった。人並みに頭の回る人間なら、まず引っかからんよ。

*1:言っておきますが私も企業に属している会社員である以上そのスタンスに立って行動する事もあります

*2:もちろん、それを自覚した上で行う利己的な利他行動は大いに結構だと思います。俺だって自分が一番大事だもん

*3:幸い、はてなのコメントとかブクマ見てると泣いた/泣けなかったに終始してて、単なる泣ける話レベルで捉えられてる。その点は安心した。逆に「涙が噴出した」とか「目からウロコですっ!」とか言ってるのは彼らの回し者である可能性が高いので注意。「マスコミ不信=口コミが非常に有用な広告手段」って事が常識の現代で、誰でも無料で作れるサイト(ブログ)が私設サイトを装った広告として使われるのは時代の必然。

*4:ちなみにデータの改竄は心理学では最大のタブー