いけにえ


 生贄、という言葉がある。


 長く日照りの続く村を救うため、洪水が頻発する川を鎮めるため、火を噴く山の神の怒りを鎮めるため……かつて人々は「人の手ではどうにもならない困り事」を解決するための手段として人命を超常の者達に捧げてきた。それは決して野蛮だとか人命の軽視ではなくて、逆に人の命というものがとても重く、尊いものである事を知っていたからこそ生まれた発想であろう。つまり、生贄というのは『これだけ大きなものを捧げるのですから、この「大きな困り事」をなんとかして欲しい』という切なる願いなのだ。
 

 ではこちらは現代の話。

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 一体これは何だ。

 何のための死だ。


 自殺、自殺と書かれているが自分には彼らが周りの人々に殺されているようにしか見えない。生贄などという風習はとうの昔に無くなった筈ではなかったのか?

 昔の生贄は村の皆の祈りを一身に受けて死んでいった。しかし現代の生贄は人々の悪意と無関心によって絶望のままに死んでいく。

 こんな事は許されない。許されるわけがない。

 しかしもっと許されないのは彼らを生贄にさえしない事だ。
 彼らの死を無駄にしてしまう事だ。
 これら一連の事件を受けて何も感じない、何もしない事だ。
 現代の「大きな困り事」である教育問題を解決しようとしない事だ。
 
 そして昔の生贄と違って、それを解決するのは神様ではない。


 繰り返す。それを解決するのは神様ではない。

  • 余談

 実は自分も小さい頃身体的な特徴からいじめられてまして。悪口ではやし立てられたり、靴を川に捨てられたり、給食に虫を入れられたりしてたなあ。で、どうしたかって言うと毎回怒ったり喧嘩したりしてた。まー弱いんでいっつもボコボコにやられてましたけど。でも当時はキレやすかったんで、やられるのわかっててもバカにされた瞬間に頭のネジが飛んじゃってたな。そしたらそのうちなんとなくいじめられなくなった。たぶん「アイツからかうと面倒くさいからやめとこ」って事なんだろう。
 「別に世の中の人間全員と仲良くする必要なんか無いじゃん」って事がわかっただけでも、いじめられた価値(?)はあったんじゃないか、と今では思う。